真虎の肩のコラムはなし
思い付くままにいろんなこと書いてみます。
気が向いたら読んでみてください。

[近所の火事]-----2006/04/16(Sun) 04:19
遅い昼、うたた寝をしていた。
何だかゆめうつつの楽しい時間

けたたましいサイレンの音、外を見ると煙。
これは大変なことになったぞ!

夕刻・・・正男と僕は火事場を訪ねた

沢山のお巡りさん、消防士さん、みんな必死に仕事をしている。  そんな姿にも感動し胸を熱くしていたら、一人お巡りさん、僕の方に真剣な眼差しで近づいてきた。

”怒られることはしてないよな”正男に問いかける。

するとこんなこと、お巡りさんは僕に訊く

「火事のアパートから非難されてるかたですか?」

場所が場所だけに笑うに笑えなかったけど、その他大勢の野次馬たちには、そのようなこと質問しない

焼け出された男に見えたのだろうか

遠い眼をしていたからかな・・・・

正男と目配せしながら火事場を去った


[札幌南蛮ナイト]-----2006/03/14(Tue) 02:07
お蔭様で2回目も無事、楽しい夜を皆さんに演出して頂きました。 ありがとうございます

一番最初に出演してくれながら、なんだかずーっとハモニカを手にステージにいてくれたような気がした
”久保拓馬君”
最初に君と会った時、こう言ってたね。
「家の父が、カントリー大好きで・・・」
ありがとう。僕もその育ちなんだ
今、こうして僕らがカントリーを奏でること、それがとても楽しいし嬉しいな。
そして君の純朴な人柄、ギターも良かったよ。
これからも、沢山旅を一緒にしようね

”福森千花さん”
僕とミートマン、拓馬との即興バックであなたも焦った瞬間が幾つもあったかと思います。
でも、不思議に後ろにいた僕は、あなたのステージに対する堂々としたそんな素敵な空気にそう、むしろ安堵感を頂きました。
きっとナッシュビルでもあなたは、沢山の歌手としての財産を得られると、僕はそう思います。

”大野真虎とHG(hoppers grond)
僕の出番です。
いつもの事ながら、周囲のムードを察しながら、ライブの時はステージの上で曲の進行を進めておりました。 バックを勤めるメンバー達、ありがとう

”五六八さん”
切れの良いブルース、そしてクラプトン。
拓馬君のハープと共にリラックスした大人の音楽を奏でて頂きました。
そう、去年の暮れに(関係ないけど)男ばかりの誕生会して頂いたこと、いつまでも忘れることは無いでしょう  これからも宜しくお願い致します

”ウイングラス”
卓越したあなた達のブルーグラスプレイ、いつもながら「うげー」と感心しております。今回も楽しかったし嬉しかった。
僕もカントリーをずっと続けながら思うことなのですが、何より持続する楽しみ、これが大事だと思うのです。 皆さん素敵でしたよ。

”日本甘党”
イーグルス、オールマン等、バンドの皆さんの音に対する結束がきっと強いのでしょう。僕はそう思いました。コーラスが楽器何本にも匹敵するんだなと。
最後に僕が皆さんのステージに上がり、ブルーグラスプレイヤーとともに歌わせて頂きましたが、僕自身「あ~これが南蛮ナイトなんだな・・」と感じさせていただきました。これからもアメリカの風、伝えて下さい


本当に心から「ありがとうございます」
僕の気持ちの中にあったコンセプトは、アメリカンミュージックの融合です。
たとえば、動物園に草食動物ばかりいても、面白くないようなそんな気がします。肉食動物や夜行性動物も一緒になって、同じ空気の下で楽しめる。
お客様も個人的なジャンルを超えて、アメリカンミュージックの宴を楽しんでいただける。
以前からこの地、札幌に訪れて以来、ほのかに夢想していたこの様な事が、少しづつ現実になろうかとしております。どうぞこれからも仲良くよろしくお付き合いお願い致します。

関係者各位 ありがとうございます。


[僕を心配する近所の酒屋]-----2006/02/24(Fri) 12:18
もうかなりのお付き合いになると思うが、家から歩いておよそ5分程の距離にその酒屋はある。
真面目な店主は昼間から平然と酒を買いに来るこの僕を、当初は訝しげに 応対してくれていた。
いつも静かな店内で、僕も髪ぼうぼうのうらぶれた姿で訪れるものだから、会話も無く もしかしたら店主に対してある意味恐怖感を与えていたのかもしれない

ある日何年目かの昼下がり、、、
店主は意を決したかのように、冷蔵庫の前に立つこの僕に声をかけてきた。



「 あの~~  肝臓は大丈夫ですか? 」


酒屋で僕はドーナッツを買ってるわけではないのこの男は何を言っているんだと僕は瞬発的に思い、しかも寝起きの僕は訳の分からないことを口走ってしまったのである



「 そんなに呑んじゃ、いかんぞう 」

笑いもなく、また店内にしばしの沈黙が訪れた


部屋でバーボン飲んでた僕にまた 子供のようなふざけ心がむくむくと立ち上がり、またその静かな酒屋に出向いたのである

歩きながら何をしょうかとにやにやしていた。


再度来店の僕に店主はドギマギしていたようだ。
そう、なにをしたか?・・・

冷蔵庫から氷結果汁レモンをおもむろに取り出して
その場で飲んだ・・・・
店主はぽかっと口を空けて僕を見ていたけど、さらに陳列棚にあったチーズをぱりぱり空けて 食べた。

何も持たずに彼の元に足を運んだ。

「  ・・・398円です・・・」

速やかにお金を払い、僕は店を出た。
ふと振り返ると入り口から彼は僕見ていた
 

あれからも何度もその酒屋に出掛けてる、今ではすっかり仲良くなり、レジ越しの立ち飲みもなんだか普通になってしまった。彼は今でも僕を心配している
「 そんなに呑んで大丈夫ですか・・・ 」

じゃ、売るなよ、とも思ったが・・・大事な近所の酒屋さん、 これからもよろしく




[怪醤油 ニョクマム]-----2006/02/08(Wed) 13:41
今僕はベトナムの魚醤、”ニョクマム”に凝っています。
日本にも秋田でしたか、しょっつる というハタハタを使った魚醤がありますが、大豆の代わりに魚を発酵させているもんだから、慣れるまでは
臭い ベトナムのそれは、カタクチイワシを発酵させたものです。
近所の輸入食料店で、半年前ぐらいに出会い、それ以来絶やすことはありません
最初はそれらしい春巻きなどに用いていたが、そのベトナム臭に慣れてきたら、はまっちゃって  あらら
ラーメンの仕上げ、味噌汁の仕上げ
ほうれん草炒め、肉じゃが など等、卵かけご飯にもやってみた・・・
大方醤油と相性のあうものには、何にでも使用するようになった。
この間は頂き物の くさや と共に食してみたら、
とても旨かった。
ただ冷静に自分を振り返ると、恐ろしいことをしている様にみえたのだ。  
誰か友達を数人集め、これで
泡盛パーティーをするとする・・・
この匂いの中でパーティーが成立するのだろうか?
ずっと一緒に飲んで食べてくれるのだろうか?
等と思ってしまった

それはまるでう~ん
あたかも、汲み取り式便所の中で飲み食いしているようなのではないか・・・
僕がニョクマムを台所からだしてくると、愛犬の正男は「何しゃがんだい!」ってな吠え方をする。確かに犬の嗅覚は一般的に人の20000倍だそうだ。

そんなニョクマムですが、ほぼ毎日使用してます。
僕は出会った時からじょじよに匂いに慣れて、大好きになりました。

興味お持ちの方、僕は ベトナム フーコック島産の
ものを絶やさず食事の友にしています。

臭いのも最初のうちだけですから、試してみて下さい


[他愛のない母のこと]-----2006/02/05(Sun) 05:37

遅い朝 突然の母からの電話

こんな事を、昨夜の酒がまだ残るぼーっとした僕に云うのだ

「私、生き神になったの。だからあなたも神の子としてこれからしっかり生きていくのよ。」

その母の声はいつものおどけた様なハイテンションなものではなく、ゆったりと厳かな口調であった・・・

いきなり神の子の命を受けた僕は、母の云う意味に見当がつかず、まさかいい歳こいた母がコカインでもはじめたのか?いや、ただふざけたいのか分からず
受話器越しの母の声を聞いていた。


             続く・・・


[" 愛してる・・・ ” の妙]-----2005/12/02(Fri) 14:01
昨日、仕事の打ち合わせをしなければと、起きぬけ頭はまだぼ~っとしていたが、いつもお世話になっている”札幌の巨人”長津さんに電話を入れた。
僕 の場合、そんな時ってきちんと話せばならない内容をきちんと頭の中で整理してから受話器を持つようにしている。 本来伝えるべきことが、たわいのない世間 話に移項してしまい、げらげらの後「それでは・・・」などと電話を切り、しばらくしてから”あれ”と伝えるべき話を慌ててかけ直すことなどが多いからだ。

昨 日はごく普通にたんたんと近日中に行われるライブの打ち合わせをしていたが。5,6分経った頃互いの間に意図としていなかった突然の沈黙が訪れたのだ・・    僕はつい、というかうっかりではないか・・・もちろん策略もない  突然僕はこんなことを長津さんに静かに呟く様口走ってしまったのだ


   「愛してる・・・」

彼は突然のことで狼狽したらしい。 「あ、え・・・」との反応し、僕はそのまま何も言わず電話を切った。そのあとまだ話はしていない

なんだか僕の幼児性がむくむくと起き上がったようだ。携帯の電話帳を眺めていると、もう3年ほど音信のなかった長野の古い友、今は実家の商店を継いでるやつにかけてみた。  互いの近況やらで話がひとしきり盛り上がった頃、僕は意図的に沈黙した。そこで

    「愛してる・・・」

云ってみた。相手は「え、あんだって?・・・」との反応。  そのまま電話を切った。
彼ともまだそのままだ

少し休んだ後、どうしても仕事的にきちんと話をしなければならない、”札幌の番長”サニーさんに電話をした。
きちんと話すべきことはいつものよう楽しく伝えたのだが、僕の何かがはぎれが悪い・・・少し勇気を出し、大方話が終わった頃、云ってみた・・・

    「愛してる・・・」
少し彼は受話器の向こうで笑っていたが、僕もそれに合わせて少し笑ったあと、静かに電話を切った・・・

昨夜みんなそれぞれどのような夜を向かえたのだろうか・・・
この行為は”迷惑行為”なのだろうか・・・
今現在、まだ返電は来ないが、きっと向こうも掛けにくいのだろう


[正男と過ごす午後]-----2005/11/28(Mon) 14:36
 小春日和のこんなのどかな午後は、僕に対しとても従順であり性格も穏やかな身近な友、”正男”を連れて近所の公園に出掛けてみる。

彼は時々上目づかいで僕を見上げ、歩調を合わせながら平和な風の囁きを聴いてるよう
たどり着いた公園には、先客もおり、僕と正男に好奇の目を向けていた。
ベンチに腰掛けた僕と正男・・・

おもむろにジャケットのポケットから缶チュウハイ、ぷは~、と飲んでみる。 これが旨いんだ・・・
「ねえ、もっと歩こうよ」と寂しげな瞳で正男は訴えるが、「少し待て、この平和な時間をもっと二人で共有しようじゃないか」などと僕は彼に伝えてみる。
そろそろ缶が空になるころこの公園には僕らしかいない。
「正男、家に帰ったら君の好きな豚の耳のスモークごちそうするからさ、明日又散歩しょうね」距離にして100メートルほどの帰路に着く。
従順な彼は仕方なく僕の気まぐれに翻弄されるのであった。そんなこと僕は人からされたら嫌な癖に正男にはどうもその様にしてしまう・・・ごめん

”正男”は僕の愛すべき愛犬だ 


[蟹な夜]-----2005/11/15(Tue) 02:11
いや~久しぶりにカニ鍋なんぞを豪快に美味しく頂いて、心地よくそんな至福な時間に浸っていた時”カニ”にまつわる思い出が頭を過ぎった


あれは3年ほど前だったろうか猛吹雪の小樽・・・

知り合いから依頼を受け出かけた先が”蟹くらぶ”というカニ食べ放題を売りにするなんだか少しお洒落な広いお店。
弾き語りで2回のステージということ、終わればカニも出るというお話。

さあ、お呼びが掛かかり、いつものように唄いだした

僕の思い描いていた光景は、みんなカニを囲んで楽しげに談笑しながら、そこに生演奏なんかもあったりして賑やかにステージが進行する筈だった。
それが・・・
” みんな無口になっていた”後で聞いてわかった話だが、ほぼ満員のお客さんは、広島から修学旅行でやってきた高校生たち。唄いながら、もっとにぎやかにやっ てくれてもいいのに・・なんて思ってもみたが、引率の先生から演奏中は”私語禁止”などと云われていたようで、躾のいい学生たちはそのようにしていた。
ただ黙々とカニに喰らいつく彼ら(もともとカニを食べるとき人は無口になりがちだが)を前に僕は場違いなのではないだろうか?などと思いながらしばしの演奏の後ステージを降りた。

その次の週は、かなりメッセージ性の高いオリジナルを歌う北海道ではお馴染みの歌手”長津宏文さん”が蟹くらぶでの演奏だった。
自分の体験もあったので後日感想を聞いてみると、その日は台湾からの団体客しかおらず、あの人らしいステージはできなかったそうだ・・・
「しんごちゃんと日程変えたらよかったかもね」などとも言っていたが、そもそも行かなくても・・・二人で笑った。

僕は個人的に知らない人だが、イケ面歌手も入れたようだ。 その時はおっかけのおばちゃんばかりで、カニ食べずウーロン茶ばかりがいっぱい出たらしい。


あれからご依頼の話はないが、今は本筋の”カニ”で頑張っているらしい。


[晩夏の旅・・・↓から続く]-----2004/11/03(Wed) 23:23
そう、宇都宮では福島から、栃木市から、東京から皆さん御集まりありがとうございました
翌日頂いた餃子はとてもおいしかった
 
で、今宵は藤沢、新幹線から東海道線に乗り接いだ頃」、又持病の腰痛が爆発して僕は大変落ち込んで居ました

臨席のおば様に声をかけられました

「旅のお仕事なの?」

「はい、これから藤沢なんでっす」。「腰が痛くて移動が大変なんです」


するとおば様は「どちらのライブ?」

今夜のライブの話をすると・・

「あたしの息子はそこでドラムを叩いているの」^^

やがて藤沢駅についたら、そのおば様、腰の痛い僕を察して、トランクとギターをショってくれました。
タクシー乗り場まで・・・

ありがとう。ありがとう。ありがとう。

世間は狭いですね、本当にありがたい出会い、再会がある



[日常のなかの不思議]-----2004/11/01(Mon) 17:10
飼い猫がおととい突然死しました。


気温の低い玄関に遺体を安置しましたが、今朝ガスの調子が悪くなってサービスマンを呼ぶことになりました

”ピンポーン! すぐに来てくれたのですが、いきなりサービスマンが動かない猫を見て「わ~良いんですか?」かなり狼狽しながら僕に問い掛けた
僕は「死んでるから引っ掻きませんよ」と言うと二日酔いの僕の姿とその情景は彼になにかしら恐怖感を与えたみたい

その後、互助会のセールス
最初は一方的に玄関越しに喋っていたが、猫の遺体を確認すると「え~死んでるんですか、カワイソウ」
で、互助会の人だからペット霊園を知らないかと訊くと、知らないと云う・・・  お引取り願った


蕎麦の出前、彼は冷静だった。
いつもお願いしてる蕎麦家さんだったのか「猫ちゃん亡くなってしまったのですね」・・・冷静に猫の遺体に目を向けてくれた。 何だかほのぼのした


で、、、どうしたらいいんだろう猫?

 

[晩夏の旅・・・↓から続く]-----2004/09/25(Sat) 14:24
 毎夜の如く唄い、呑み、騒げと続けているツアー中・・・東京都下、国立市にあるライブハウス”はっぽん”は、僕の出生地の近くでもあり、なんだかほのぼの落ち着く。
旧友やら親戚なども集まり楽しい時間は過ぎる。
お店は店内リニューアルをしてまた素敵な空間を演出してくれた。ありがとうございます。

で、金曜日はチャックワゴン、マスターの権田さんとは確認の取れている間柄^^此処にいると唄っている時以外は笑いが絶えない。早めに近場でライブを終えたサム石原さんが遊びに来てくれた。朝まで呑んだ。  めくるめく夜僕は僕のままでいた。
いつもの慢性腰痛がやって来た・・・が又明日が始まる。明日は宇都宮だ、、、気合を入れよう、、、

#ねこさん素敵なシャツを頂きましてありがとう


[晩夏の旅・・・↓から続く]-----2004/09/13(Mon) 01:40
 今回の旅はお陰さまでパックツアーを利用させて頂き、前夜・・・というか朝か・・にそれなりの赤坂のシティホテルにブーツを履いたまま惰眠をとらして頂いた。
2日分ほどの長い夢見て、、、

起 きたら3時だ。どうやらフロントに前夜、電話をしないで欲しいと頼んだよう、で、元々タダの宿泊費が10時からの延長で   一泊ぶんを支払った。笑顔の やりとりでね。   以前にもこのエッセーに書かして頂いたが、夜に動き回る人にはミッドナイトプランなどを用意して頂き夕方までゆっくり寝かせて欲しい ものだ

昨夜の泡盛がタクシーの中で僕の身体を又眠りへ誘った。
で眼が覚めたらし、ぶ、や、 流石に人のいいこの僕は、ドライバーに切れてしまい、その時既に2800円ほど刻んだメーターを下ろさせて、何だか寝起きのだだッコの様にブツブツ云ってたら速やかに大混雑の明治通り。。。。

高 田馬場のロンスターに着いた。  そしたらドライバーがまだ何だか僕を威嚇しながらもトランクからギターと荷物を降ろし、しかもこう云った。「2000円 でいいですから」  から!?には少し腹が立ったが・・・想えば赤坂からの道のりだ。 「僕も説明不足でした、じゃ2800円で」 すると彼は笑顔でこう 言った 「いいんですか、ありがとうございます」とそう答えあの坂を下りて行った。  得したのかな・・・の思いを過ぎらせながらロンスターバー入店!

おはようございます、

皆さんスタッフは僕を見ると最初に何故か笑う。なんかプっと噴出すようにね。
でもこんなしばしの再会が好きだ。僕の顔も自然にほころんでいる。

金平隆さん(現テキサスカンパニーのボス)とは気心が知れているようで、想いのままの3ステージを勤めさせて頂いた。
以下PS~




その夜に、伊藤ですさん、歌っていただき、ウイスキーご馳走になったり再会を僕も楽しませて頂きました。
昔新宿時代から慣らしていたんでしょう・・・
世界があった。私信ですがまた、ゆっくり呑みましょう。
岡山のよっちゃん、ありがとうございました。
とても歌、良かったです。また何処で御目に掛かりましょうね。どうぞ現役でカントリー・・唄い続けて下さい
田中さん、貴方はあんなにマールに傾倒し、その唄までもその様に唄っていた姿は、何だか旅の2日目で目頭に来ました。素敵でした。  その後真吾ウィークでの連日のように来て入らして僕はとても感謝しております。
国立の帽子美男のおじ様、この度も2度もお顔が見れて、嬉しかったのです。他にも多数のお客様、有難う御座います。 早苗さん、キャンディさん、又笑顔で再会しましょうね


何故か地下なのにいい感じの吹く夜だった


[晩夏の旅]-----2004/09/04(Sat) 01:11
 2004年夏の東京ツアーのささやかな記録です。

以外に思われるかも知れないが、A型のこの僕は時間には結構うるさい方だ。。と思う。(一度足を怪我した時飛行機に乗り遅れたことがあるが・・・)
出発の4時間前には今回も千歳空港のチェックインを済ませていた。
さ、今日から旅だ。気を引き締めていこう



8/23銀座ナッシュビル

モノレールから山手線に乗り継ぎ、有楽町の駅から、カウボーイがギターとトランクを引いて歩き出した。
店に着くとまだ早いのにバンドの皆さんはセッテイングに勤しんでいる午後5時。
僕の身体は常日頃の運動不足の為かもうきしみ始めていた.ステージまでしばしウタタネ

4回のステージが始まった。
ピアノ、スティール、ドラム、ギター、ベースで構成されている小寺八さん率いるスーパーピッカーズの皆さん。いつもながら圧巻だ、センターで中心人物となりながら、緊張してるのはきっと僕だけだろう。
それでも懐かしい友人との再会や、手拍子の奥に見え隠れする観客の皆さんの笑顔を見ると顔が自然にほころぶ。ありがたい。楽しいライヴだった

店 を出て赤坂の山王下に三度目の出店を果たした老舗ライブハウス”ブロンコ”にB1のママ、Tさんと馳せ参じた。その前の新宿の店が講道館のように広かった ので、ドールハウスのような階段、扉を開くとリビングルームのような小さな佇まいのお店、何だかマスターが可笑しく見えて挨拶もそこそこに笑ってしまっ た。するとその時間はもう遅く、何も言わずマスターは芋焼酎の一升瓶をテーブルの上にどんと置き、初日の夜は深けていった

ナッシュビルの店長、早く元気な顔を見せて下さいね


8/24 新宿リバティベル

ここも三度場所変えをした今は亡き飯塚文男さんの愛店だ。店はガラス張り、僕はあの雰囲気、10年ほど前まで過ごしていたブロードウエイを想い起こさせた。
初夏の頃、札幌で再会が果たせたTさんありがとう。
不思議に知った顔が客席にあると嬉しいもので、この夜も楽しく務めさせて頂いた。

その夜も今度はTさんとラジオ日本でカントリー番組のDJを務めるAさんで又赤坂ブロンコへ・・・
二つ目の月が通り過ぎた


なんだか眠くなりました。
続きは上で、おやすみなさい


[白いマント]-----2004/02/18(Wed) 00:56
」あの晩は激しい雨のよるだった。想えば季節は冬だったのように思う。
毎週土曜日に横浜は石川町にある”ボナンザ”に、当時僕は弾き語りとして出掛けていたのです。     


お店は基本的にステーキハウスなので、静かなバラード等中心に4回程のステージが厳かに進む・・・で、僕もいつも淡々と唄っていたのだが・・・
店に出だしてから必ず訪れるお年の頃50歳位の方ではなかったか

全身とは言わないけど、着衣の30%は金尽くしの妙齢な御婦人で、あの頃僕は24歳位だったか、いつも休憩中には客席に下りて挨拶をしていた。その頃あの方はうんうんと頷き,チップを握らせた


ある日を境にあの人はとても変わったのだ。
休憩中に隣りに座らせ「私ビール飲めないの。。」
と言いつつ呑みかけのビールをむりやり飲ませる
酒乱なのかなと、そっと顔色伺ってもゆとりのある満面の笑顔で僕を覗き込んでいた

ある日アパートにはがきが着いた
”土曜日が私の生きがいなの・・・  
差出人不明のはがきはきっとあの人だと確信し段々気持ちが悪くなってきた

当時西武柳沢という多摩地区に住んでいた為、横浜はとても遠く、晴れた日は電車を使い、雨の日は車で長い道のりを駈けていた。  それを知ってか知らずか、僕がその御婦人に店で出遭うと「今日は晴れてるから電車ね・・・」
僕も自然に「はいそうですよ」

まあそこまでは普通の他愛のない会話だった

石川町の駅であの人は待っていた。もし偶然を装ったとしても、爽やかに「おつかれさま~」なんて言われれば「や、どうも!」なんて僕も答えられたのに・・・

あの人はお腹をかかえ僕に助けを求めてきた・「救急車を!」と言うと「すぐ収まるから電車にのせて」
と言われ肩を抱えて電車に乗り込んだ・・・
すると、にこっと笑い、その夜のライブを録音したウォークマンで片方のイャホーンを渡す。そんなに混んでもない最終に近い登り電車、周囲の乗客の視線が身に沁みた


そしてある日、激しい雨の夜のことだった

いつもの様にギターをかたずけ、路駐の愛車に向かった・・・

激しい雨の中僕を待っているあの人がずぶぬれになって僕を待っていた。
どうして僕の車がわかったのだろうか、それは今でも分からない・・・

「環八は真吾さんの帰り道よね。送ってってくださらない」
勿論僕はずぶぬれのその御婦人の願いは断われませんでした。しかしながら何故、雨の中僕の車の前に居たのだろう

走り始めて理由を訊いたら、。。。。泣き始めたのだ

訳の解からないまま
彼女の世田谷にあるマンションに着いた。ほっと胸を撫で下ろすと、彼女が言う
「このマンションの屋上で待ってて、貴方にプレゼントがあるの」
その頃には激しかった雨もやみ、真っ黒な空に白い雲が棚引いていた。

僕は貰えるものなら・・と風に打たれながら屋上で訳も解からず待っていた・

約10分後、ほぼ暗闇の中彼女は現れた

手には白い装束、「え、」と僕は後ずさりしたのだが。
それは現世の人は絶対着る事のないであろう
”中世的な白いマントでした”
そして彼女は何かに追われるように、急いで僕にそのマントを着せにかかる、着たはいいが気持ちが悪くなり、白マントのまま車に帰った。すがる彼女を振り切って・・・
その途中何人かの人と遭遇したが、一体白マントの男はどのように思えたのだろうか・・・・


その後その御婦人は現れることは無かった


[黄昏のワイキキ]-----2004/02/13(Fri) 12:53
15年ほど振りにハワイなんぞに出掛けました。。。


ワイキキの浜辺の安ホテルに泊まり、近所のABCマートでおもちゃのようなウクレレを買ったり、コナビール(個人的には嫌い)呑んじゃったり、一日目はそれなりに良かった。
浜辺には明日下りよう・・・

僕の夜は極めて長い。目が覚めると昨夜を省みる・・・
あ~呑んだくれちゃった。もう昼下がり・・・
で、ここ迄来て何故か天下一品という僕が20年来はまっているラーメン屋が在ると聞き出掛けてみた。
スタッフの方は4人いたが全員現地人。英語のやり取りの中でオーダーした時少々味に不安があったが、届いたそのらーめんは日本で食べるそれと全く同じもの。嬉しかった
。    レトルトなんだなと変な関心もしてみた。


やがて夕暮れの中、やさしい風に包まれ近くにあるカントリーバー”ワイキキナッシュビル”に出掛ける・・・
バンドは不定期で主にDJが店を盛り上げていた。
ジャック&コークが胃を湿らすといつしか僕の中で時が止まり又朝を迎えるのである。
まあいいさ浜辺には明日下りよう・・・


僕の母と新しいお父さんのためにサンセットクルーズというプランをプレゼントしょうと思いつき、ホテルの部屋があったパンフレットから予約の電話を入れてみた。
とても流暢な日本語で電話で答えてくれたので、遠慮なく色々訊いてみたのだが、途中で彼の頭ん中、ショートしてしまったようで「おりかえいり、おでんわでいいでしょ」
で僕は「でもあなたは僕の電話番号しらないでしょ?」
「だからおかえり、おでんわでいいでしょ」
いらいらした僕はつい悪言を吐く
「SPEAK ENGLISH。。。」
すると彼は「FUCK YOU!!!」
僕も悪いが、電話をきってから、なぜか笑いがこみ上げてきた。それで違うところの潜水艦ツアーに両親を送り込んだ。。。好き嫌いは訊かずに。

その晩もワイキキナッシュビルに赴き、朝までジャック&コークとともに夢をみる・・・

浜辺には明日おりよう・・・

浜辺には明日おりよう・・・

浜辺には明日おりよう・・・



一度も下りれなかった


[木漏れ陽]-----2003/12/03(Wed) 02:08
じっと自分を考える・・・ 
この男はなんだろうって・・・
亡くなった父も4回結婚をし、母も同数の結婚をしている。そしてこの僕は、旅をしてた。
そして、今、子供の頃より憧れていた、この地北海道に居る。
少しずつ大人になろうと思いながらまだ子供でいるような気がする
時々、子供の頃から続けている川釣りに想いを馳せたりして、来年など、どうでしょう、来る春まで身体鍛えておくから。木漏れ陽のなかで、一杯やろう
どうか、皆さんよろしく


[自然光]-----2003/11/10(Mon) 15:53
  今日の札幌は曇ってる


昨夜は久しぶりのコンサート。
実に多くの方にお集まり頂き、ありがとうございました。

 

約50分のステージの途中で、突然興奮状態の自分がいました///
あれはなんなのでしょう
我が眼で自らを照らすピンスポットライトに向かい合うとそれはまるでおいで、おいでをするように・・・

酒は要りませんでした

皆さんの笑顔と素晴らしいステージに高揚しました


[初夏の京都、カントリーコネクション]-----2003/08/19(Tue) 04:26
壱岐からの電話が事の始まりでした。
「しんごちぁん、一つやってよ!」成るお話から、僕はそんな気合の入ったコンサートにお邪魔していいのかと、最初は考えました。

”カントリーコネクション”

その前前日僕は神奈川藤沢にいた。
ライブを終え、僕は担がれる様にしてホテルに戻ったのだが、仲間も相当泥酔しており、「はーあ~~」とか笑いながら僕を植え込みの中へ投げ出した。
何とかベッドにたどり着いた僕に、一人が耳元で囁く・・・「明日、東京駅まで行って、京都行きの新幹線の切符を買うんだよ」って・・
解かっているよと僕は夢心地で答えていた・・・



ホテルを又チェックアウトする時はもう大慌て!
”間に合うのだろうか?でも今日は前夜祭だからなんとかなるだろう」と

京都のホテルを取って頂いた方は、壱岐に城を持つ^^Wさん、携帯電話で動向をしめしつつ、なんと京都についたら8人ほどの方が僕の京都入りを待って頂いた。
何時来るかも解からないこのバカヤロウの為に待ってるロビーでファンの方々とお会いした。


みんなは僕の顔のキズを訝しげに眺めていたが
一人のおばさんが訊いた・・

「それって、たつー?」



わっはっは!と笑い、事の顛末を告げ、我々は居酒屋へまだ夕焼けの京都の居酒屋へ赴いたのです。

そしていよいよ久しぶりのホンキートンク
いつも夜に訪れるから周囲の状況がわからない
またしても担がれるように階段を上がった



やっぱりアメリカだった。
そして明日に繋ぐ前夜祭として、カントリーライブが行われてる。


ステージから呼ばれた


こんなんじゃいけない・・・など、思いを掠めながら
僕はステージにいた。

およそ3曲ほど唄い
最後の曲はME AND BOBIE だっただろうか

最後エンディングの時誰かから膝かっくんされる様にマイクにがつんと前頭部をぶつけたんだ

本当に真面目に前夜祭を進行していた皆さんごめんなさい。
主催者の清水先生とお会いした時・・・
オーラが見えたような気がする・・・

次の朝7時に電話がホテルにあり、まだ夢うつつの僕を京都会館にいざなう。
楽屋に入ると元気のいいバンドマンが血色良く元気良くそこに居た。
弁当なんかもみんなわしわし食べていた。

みんないい人達で僕は安心したがそこに一人座敷藁しもいた、。


ステージに上がりスポットをギャンと当てられた時
僕の仕事が始まる

光の狭間に御世話になった壱岐のWさんやら、いつも札幌の居酒屋でお会いしてたKさん、福島からいらしたNさんご夫婦方、、皆さんの顔を歌いながら見てました

又ね、又ね、あるといい


”カントリーコネクション!”


[ああら~めん横丁]-----2003/05/01(Thu) 17:51

最近札幌のラーメン界もニューウエーブな人気ラーメン店が増えている。あたかも東京に”東京豚骨系、”なぞが出始めた頃を彷彿させる。
今、新聞のテレビ欄では一つは最低ラーメンを番組に取り上げるし、行列の出来る店も昔は並ぶ理由として「おいしいから」と素直に並んでいたが今日それに溢れる情報量と流行で戦後最大のラーメンブーム目下最中だ。
東京での行列店の特徴の多くは既成概念にこだわらずに味の追求を求めた結果の店が多いと思う。
その気風が今、札幌に感じられる。

ラーメン横丁はおよそ30年の歴史を持ち、独特なひなびた風情はなかなかそれでレトロないいもので、人を引付けそうなものだが・・・地元の調査では、9割の人はここを利用する気がないという。かくゆう僕も札幌にきて8年経つが、2度ほどしか此処で食べた事がない。
全部食べていないから言えないけどえ~い云っちゃえ!
”まずくてたかい”
地元の人も全く行った事の無い人は少ないと思うが、又行こうとは皆思わないらしい。
飲み屋の席などでラーメン談義などよくありますが、あそこのことは話題にも登らない。
今のお客さんは舌が肥えてて、努力せず蔓延と店を空けてるところに足は運ばない・・
あそこは地元9割が利用しないに対しての観光、主張などの1割客をあてにしているようだ。一期一会横丁\\\

そんな漫然と構えたラーメン横丁に新風が吹き込んだ。
東京の人気店”ちゃぶ屋”に”でび” 突然の出店だ!
横丁親父かあさんたちは焦りを隠せない。
テレビの取材インタビューでは、「あれは札幌ラーメンじゃないでしょう」とか、なんか投げやりに「うちにはうちの味があるから」等と嘯いている。

今主に関東の有名店が札幌に進出したり、既成の概念に縛られず自由な発想で味を追求する店が増えている。
いつまでもあぐらをかいていられないよ親父!
単純に考えても”ちゃぶ屋”に”でび”はラーメン横丁利用しない9割組をターゲットに乗り込んで来たのだ。
地元ラーメンファンには嬉しいかぎりだ。

是非これを期に”らーめん横丁”もひとつ活性化してみたらいかがでしょう?



*僕も皆さんに飽きられないよう頑張ろう・・・*
  


[この男の不思議・・・]-----2002/10/09(Wed) 21:47
時々、自分を客観的に振り返っては首を傾げる行動をしている自分に驚くことがある。
もう一人自分がいるのだろうか・・・
もともと思いつきで行動するたちなので、そうここ札幌に今いるのも突発的な思いで訪れたのが最初かな。
ナッシュビルに出掛けたときも、計画的なことは何一つ無く衝動に駈られてでかけた。
ありがたいことに、行く先々に友達が出来て毎夜の喧騒の中僕は調子に乗ってしまい、めくるめく夢をみる。

唐突だが明日の自分が読めないのだ・・・

今朝は衝動的に丸刈りにしている自分がいた・・・

おそらく5年はかかるであろうその髪の育みを僕は衝動で刈り取ってしまった。
その姿を目撃した友人K君は「なぜ・・・?」と目を細めて訊くから、もっともらしい返事「自分への戒め・・・」と答えたがごめんこの場をお借りして・・・

思いつきの衝動だったんだ。
森林伐採を思い出し、相当な後悔をしている自分・・・

この男の不思議、明日は何をしでかすのか・・・



”行く川の水は絶えずしてしかも元の水にあらず・・・”
[山が真吾にもたらしたもの]-----2002/07/25(Thu) 10:40
あれは、まだ15,6歳のころ、八ヶ岳連邦は硫黄岳。
僕は西側からの氷で埋もれたような沢を、ピッケルとアイゼンで強引に登りつめました。

しかし、その硫黄岳頂上は風雪が舞い、1メートル先さえも確認ことすらできません。

どうやらコニーデ型の火山の縁を目が廻るほど歩き続けたようで・・・
疲れも限界に達し、雪の中で転がりつつ、寒さが苦痛にもならなくなった頃。。。

僕は死ぬんだと思いました。


眼を覚ました時に、屈強な男性の腕の中だったように思います。
死にそうだった僕にインスタントのポタージュスープを口に含ましてくれた山男がそこにいました。

そ の後、山への気持ちがお互い通じまたまた危険な山々へ足を運ぶのですが、南アルプスの標高3000メートルの非難小屋で3日間、雪に埋没した小屋の中に閉 じ込められた事、真冬の谷川岳で夜通しかけて、対岸の遭難者を助けた事。 今の僕には夢物語の様な体験をさせて頂きました


去年の桜が咲いてる頃、その山男と再会し、彼には美酒と僕の音楽を楽しんで頂いたのですが、結婚をし子宝にも恵まれた彼と、「昔さ~」「あっそうそう!!」
なんていうこととなって、年を経たことを実感しましたのです。

又ね、又ね! ”命の恩人”





[生かされている。。。]-----2002/07/24(Wed) 01:25
数日前の昼下がりに僕はお茶を取りに冷蔵庫へ、テレビはワイドショー、その時の内容は憶えていないが元気のいいリポーターが吠えていた。。。

茶を注ぎ、さて氷あったかなと冷凍庫を空けたら冷気が顔に吹きかかりその途端に僕は”気を失った・・・”
理由は医者にかかっていないので解からないが、
約3分程の、思考停止状態へ・・・

眼が醒めて言の事態を我が身に問う。
よく解からないが、”栄養不足”なのではないだろうか?
そう思い食べたくも無い”白身魚のフライ弁当”等を馴染みのお弁当屋さんに注文などをし食べてみる。「美味いじぁないか」ちやんと完食し、暫しソォフアーでくつろぎ、食べた達成感を味わい”これで今夜も大丈夫!”と、膝をパタンなんて気合を入れてバスルームへ・・・

又気を失った。

いよいよ心配になり親しい友人などに電話をするも、医者でない彼らになす術も無く、笑いと共に僕の話を聞いている、そんな僕も笑いながら喋っているのだからしょうがない・・・

でもその夜も元気良く唄い、呑んでるのだから。
なんでしょう?朝陽を拝み家路に着き、又明日を待つ・・・

生かされているんだね?と自分に問うと、都合のいい答えが返って来る

  ”そうだね”

うーん、又明日がやって来る。。。




(うちの父の遺言は、自己鍛錬、自己規律、でした)

ごめんね、そしてありがとう






[土地感なしの男より]-----2002/07/23(Tue) 02:31
保守的な土地、或いは、開放的な土地、などよく話題に出ますね。


確かに色々土地習慣や、日本古来からの先人的意識から、皆さんそれぞれに各県の印象を持ったりする。

よく酒場などで話が出て廻りを気にしながらそんな話に花を咲かすのですね。

僕も自分自身が日本全国歩いているのですが、本当の気持ちは出会った人何処の土地であっても、みんな大好きです。


ね、日本の面積はカルフォル二ャ州のサイズにも満たない訳で、人と人が触れ合うこの国で、僕は出会ったみんなと大事な機会に感謝し、何処の土地の人とも仲良くしたい。


器用には生きられそうにないけど、これから出会うひと、
今まで会ってるひと、

これからもよろしく☆


[動物園の飼育係になりたかった僕]-----2002/06/24(Mon) 04:16
夏休みも中盤を迎え、そう小学生のあの夏休みは皆さんそれぞれ長かったな、という記憶はございませんか・・・・。

夏祭りで50円でヒヨコを10羽買った僕は夏休み中に、当時新設校だった清瀬7小の裏庭に学校の許可も得ず勝手に鳥小屋を作り始めた。
当 時の宿直の用務員さんが再三再四、その子供の行為を止めるべく”こら!”とかって現れるのだが僕をリーダーとする鳥小屋設営隊はそれが返って刺激となりあ ちらこちらから廃材を集め(そう細川君、君の家は建築屋さんで沢山協力してくれたね)夏休みが終わる頃にはトタン屋根も張り終わり、用務員を乗り超えて先 生達に直訴することになり、大野真吾を中心とする”七小飼育委員会”が、おっ!という位簡単に承認されて、みんなで歓声を上げたのを憶えてる。


やがて2ヶ月ほど経つと全てがオンドリで声は大きく1階の一年生の授業を妨げるようにもなり校内でも又問題となり
そこに、鶏嫌いの用務員も加わり、彼はこう先生達に説明した。”折角掃除しても鶏が入ってきてね~足跡消すの大変なんですよ”

嘘だ!確かに子供の作った小屋はいびつであり、そんなことも想像させるかもしれない、僕は用務員のおじさんに食って掛かりその話の矛先を先生達に向けると”うんうん”などと口篭もり子供に分かりやすい説明にも困っていたので、

僕は行動に出た。

もしかすると今振り返っても僕の勝手な思いつきがきっかけだと思うのだが、飼育委員会のメンバーを5人集め、その日の授業をボイコットし何処までも歩くことになった。
最初は仲間も事の事態に興奮していたけど、所沢で2人だったかな、入間で2人だったカナ、歩く事に疲れ、家が恋しいという。小学5年では仕方ない
僕は皆に来た道を帰れと告げ僕はただ一人目的地の無い旅に赴いた。

飯能という田舎町に入った頃おなかがすいて、豆腐屋さんの店先においてあった”おから”を頂いて、やがて子供心ながらも自分が何をしょうとしてるのか、この旅で何が得られるのだろうか・・・涙を押し殺しながら約50キロの道のりを、帰ることにした。


家に着いたのは朝の5時頃だったかな、親に怒られることは覚悟していたけど、裏庭から覗いてみた。
わ!起きてるぞ!でも事態はこのままでは収まらないのでがらがら~と戸を開けてみた。

そしたら親父がニコッと笑い、”腹減ってるだろう、チャルメラ作ろうか”
僕はびんたの2,3発は覚悟していたのでとてもびっくりしたが、親父が台所で”真吾お前は何をしてたんだよ~”
泣かれてしまい折角のラーメンも思い切りすすれなかった・・・


翌朝学校に出掛けるとまず朝礼でこの顛末の話になり、僕らが授業をボイコットしたその日、学校は半ドンとなり、先生達は上野動物園と多摩動物園に僕らの捜索に出たと聞
き子供ながらに起こしたことの大きさにまゆをひそめ、何だか分からん自立心も芽生えた。



う~ん夏休みがらみの思い出ね



[札幌よさこいそ~らん祭り]-----2002/06/22(Sat) 02:21
僕が北海道に来てから初夏の風物詩となったお祭り”よさこいそーらん”年を重ねるごとに参加グループも増え、最初は10チーム程だったそうだが今では300を越え、観客動員数も200万を越す大祭りになった。
ローカル地元TV局はワールドカップ日本敗退、そしてつかの間の恋人イングランド代表の”ベッカム”が帰英するにあたってここぞとばかりに各放送局はよさこいに燃えている。(今もTVから流れています)
踊り子たちは約一年この日のために踊りが生活の一部になるらしい、そこには彼らの爆発的なパワーがあり、見ている方も何でこんなに元気になのに、今日本は不景気なんだろうってこの祭りの間思考が空中浮遊しているようだ。
これから日曜日まで続くこのイベント。
そのパワーは踊り子も観て感動した方もみんなで蓄積しよう。
祭りの後ってさ、よく言うじゃない”寂しくなったね”なんてね、なんかそうなんないようにこの夏に向かってみんなのパワーも貰いたい、・・・


最初何か滑稽なエッセーを目論んだのだけど、PCのモニターとTVが重複して見え聴こえ”気”が交わってしまったようだ。応援したい・・・

ち なみに今から5年前に”ドコモ ザ ウエスタン”というチームに雇われ当時斬新なカウガール揃えの踊り子の中で少し調子に乗りやらなくていいアドリブを生 マイクで炸裂、本来祭りには関係のなかったカウガール、カウボーイを自ら勝手に仕込み、本来正式にプロディースされた方達を困惑させた思い出があります。


[現実の中で暫し夢を見る]-----2005/11/29(Tue) 09:55
昨夜からほとんど今にかけて温泉にいた。
家からほど近くその名を”里塚温泉”という、霊園の敷地内にある温泉である。
まだ札幌の風は適当に冷たくて、露天風呂では出たり入ったり、ウダウダと1時間ほど遊んでいたのではないかな。
温 泉マニアではないけど、家からあんな近いところにつるつるすべすべになれる温泉があること、とてもありがたく思うのだが、平日ということもあり館内は閑散 としていて、いつもなら人ごみを嫌う僕もなにか人恋しくなってしまい、ガラス戸をあけて入浴する客、誰か居ないのかと目で追ってしまった。少しして・・・
おじいさんが”あああああ~”の言葉と共にざばおん!と勢いよく入ってきた。
おじいさんが”あっぷ”と言った後に僕に声をかけてきた。
”俺のばあさんの好きな湯だったんさ、今夜命日だからね、ほれ、そこの壁の裏の墓にいる”

”あ、そうでしたか・・・”

しばらくおじいさんの話が続いた。

僕は岩の上に腰掛けて足元の温かみとおじいさんの意味のある一日の話に耳と心を傾けていた。

露天風呂で僕は少し気が遠くなる中暫し自分の生い立ちや今ある自分も考えていた。、湯の気のお陰でおじいさんは話し続ける。

”ここの湯が好きで、週末になると誘うんだ、3階の景色のいい山々に陽が落ちるあのレストルームであんたと会えるんだもんなんてな”遠い眼をしながらね・・・


豪快なおじいさんは、どういうつもりで言ったのか分からなかったけど、
”じゃね、頑張るんだぞ”
と一言残しざっばあ!と湯煙の中に消えてしまった。

僕は又暫し肩まで湯につかり、考えてみた。
悲しくなった・・・それはまだ自分が甘いのかなとも思ってみた。

しばし、ぼ~としてたら、若い学生風が入ってきて、空ろな眼の僕を避けるように、そ~つと湯に浸かっていた。


[俗魚]-----2002/06/06(Thu) 01:51
我が国固有の魚種であるのかどうかは分からないが、”ウグイ”という魚がいる。(関東ではハヤ)
生息域もとてつもなく広く、日本全土の沿岸帯から、遥か山奥の幽谷の沢にも彼らは元気に存在しているのだ。
釣り人の多くは海、川越えて忌み嫌う。
実際僕もこの魚を釣り上げると、”な~んだウグイかよ”などと嘯き無垢な魚の瞳に首傾げて眺めつつ全て水の中へ返す。

煮ても焼いても食えぬ魚・・・と云われているが・・・

雑食性で口に入るものは何でも食べるらしい、のんびりと港でチカ(せいぜい10センチほどのワカサギのような魚)に針を垂らしていると、突然、ガク―ンと竿を持っていかれ糸をバスンと切っていく魚でもあり、マス狙いで期待と共に投げ込んだルアーにも喰らってくる魚。
でもそれを釣り上げた釣り人は落胆してしまうのだ。

実に人間本位の魚の立場の位置付けである。

今度食べてみようかと思う。
けっこう我が国日本国内でも、例えばキュウセン(べラ)等は西日本で美味しい魚として食べられているが、関東で嫌がられたり或いはフナを伝統的に食べる地域があったりその土地の人の人伝えで、先入観と共にいい魚と良くない魚とわかれてしまったのではないだろうか。

勝手に食えばと云われそうだが、食えば美味いかもしれない。

この人間社会にも”ウグイ”のような人がいますね、生命力と環境対応性に長けていながらも・・・相手にされなかったり、その本人すら知らない人から中傷を受けたり・・・ね



キラキラ輝く太陽光の下で僕は釣りをしたい。




[フィッシュ、オン!!何てね・・・]-----2002/04/30(Tue) 05:26
北海道森町にあるとても素敵な湖沼。
大沼にブラックバスが越冬したということで、これはまずいぞと考えた漁協はこんな提案をしました。
ワンド(入り江)に春になり産卵に訪れるブラックバスの産卵床を作りその外部に土のうを積み、数が集まる頃
一斉に発破(ダイナマイト)で死滅させようという作戦。

なにを考えているのかと思う。

一箇所に追い詰める作戦を思いたったのなら・・・

そこを釣堀にしたらいい。


[ああ床屋さん・・・]-----2002/04/23(Tue) 18:16
髪が肩にかかるようになってから鬱陶しくなり、「よし、切ってやる!」気合と共に床屋さんに赴いた。
床屋さんには美容室のエレガントさはないが、髭を剃ってくれたりマッサージ等の付加価値がある。
そして何より平日の昼下がりマダムに囲まれながら、緊張しつつ「あの・・・段カットで、後ろに流れるように・・・」などのまどろっこしい自分はそこには居ず、男らしく堂々と・・・「普通」・・・と言えばいいのだ。

床屋さんのおやじは本当に”普通”に淡々と僕を仕上げてくれて、夕暮れの街に僕を送り出してくれた。

ああその夜・・・(現在に至る)
僕の髪型を見て会う人全てが笑うのだ。

せっかく”普通”になって帰ってきたのに・・・
僕には”普通”は似会わないのか。

頭を抱えてる・・・


[旅話]-----2002/04/08(Mon) 19:05
隔月に一度の旅の生活はもうだいぶ前から定着しているが、行く先々に出会いや再会を待ってくれる人がいるという こと。これがとても嬉しい。だんだん僕のスタイルに慣れてくると”地の美味しい魚をご馳走しょう”とか”これは此処でしか食べられない貴重なものだから是 非食べて貰いたい”の御もてなしより、”ライブの後、今晩はガンガン呑もうね、明日は仕事休み取ったから!”あるいはホテルでチェックインしたら、”こち らをお預かりしております”とおずおずとジムビームをフロントで差し出されるようなことが多くなった。
基本的には一人で移動を続ける僕は、おおよ そ15キロ程のトランクケースを引っ張りハードケース入りのギターが必ずついて廻る。普段から運動不足の僕にはむしろ身体にはいいのだろうけど、やはりい つも辛い。未だ東京都内の駅でもエレベーターやエスカレーターの無いところも多く、身体の不自由な人の気持ちが少しだけわかったような気もする。
さて、その日のライブも無事終わりその場所ごとにおいての友人たちなどと語らい合い、おおいに酒を酌み交わす。
とても楽しい時間だ・・・。
気がつけば朝を迎えヘラヘラと宿に戻る(戻らなかった事もアリ)。その時々だが、大方短い眠りの後次のライブに自分を新しいモードに切り替えようとする。
次の街でも同じ様なことになるのだろうな・・・等と想いながらも多少の不安より又出会い、再会をそして何よりも僕は宴会の旅を基本的にはしているのではなく(笑い)来てくれるお客さんに、”いい歌、思い出に残してくれる様ないいライブ”をモットーに旅をしている。
でも、行く先々でのお客さんとの出会いがやはり僕の力になり又朝を迎え、冷や汗をかきながら重いトランクケースを引っ張りギターケースを持って次の場所へ向かうのだ。

何だか元気の前借りをしながら旅をしているよう、札幌に帰ると必ずといっていいほど”腰砕け”になってる。


P・S
ホテルのチェックイン、チェックアウトの時間を利用者が選べるようなシステムがあったらいいな。大概10時か11時でしょう、延長料金がかさんでしょうがない・・・
[リトルアメリカでの話]-----2002/04/03(Wed) 04:59
今から15年ほど前の話ですが、週末にはヨコタとかヨコスカとかザマ、アツギなどのアメリカの基地に演奏に出掛けていた頃の話です。

45分を5回こなすには、持ち歌も含め彼らの感じたいムードなども演出しなければならなかった。
ダンスホールは当然あり、僕らはタンタンと曲を進めていた。皆思いおもいダンスを楽しみ、カウンターでは恋人同士が盛り上がっていたり、ボックスでは若い兵隊たちがスクラムを組むようにコーラスに参加してくれたり・・・
そこにはタバコの煙の漂う赤いカーペットで、ステージのバックにはベルベットの幕などが張ってあり、とてもいい気分で僕は当時リトルアメリカを体感していた。


横須賀基地クラブアライアンスでのある夜・・・

僕 らが演奏してる時、映画館状の扉をΣΣ┗ガーンと開いてやって来た彼ら、みんな御揃いのユニホームで20名程だっただろうか、いきなり入ってくるなり酒も 頼まずダンスホールに踊り入り、他の普通にダンスを楽しんでいた人達は押し出されるように客席にもどされる格好になってしまった。
それでもいつもと同じ様にたんたんとステージをこなしていたのだが、そのダンスチームのリーダーであろうか、英語の分からぬ唄ってる僕以外のメンバーにやたら、なにか攻撃的に何かを訴えている。
僕は気にはなったけど基地の仕事はコンサートじゃない、与えられた時間たんたんと唄ってた。

突然音が消えた・・・・。・


そのダンスチームのリーダーが我々の主電源を抜きやがった!

突然音は無くなり、クラブ内は騒然とした。
僕はその男に詰めより事の説明を強く求めたが、それは当時僕自身悲しくなってしまった・・・
彼が言うには「今夜の為にみんなはダンスを練習してきたんだ!その曲をやれ!」
のような事と言い出して興奮した彼は僕に中指を突き出していたもんだから、僕は当時のメンバーに言った。
「帰ろう!」

事のあらましを一部始終見ていたメンバーはそそくさと撤収に取り掛かった

その時静かにその状況を外部で見ていた兵隊たちはそのダンスグループたちに抗議をし、場所が場所だけにそれがやがて乱闘に近いものとなってしまった。
やがてMPも駆けつけ演奏どころの話では無くなってしまい・・・

何とも言いがたい帰路に僕らはついた。



その3ヶ月後程後の話だった。
当時、カントリーダンス好きのハウデイと言う彼女は僕らの横田基地でのステージには必ず来てくれる女の子で、メンバー全員顔見知りだった。
で、彼女は言った。
あれは大晦日の横田NCOクラブ・・・

「今晩ね、横須賀から私がダンス習ってる先生とダンサーズが来るから楽しみにしていてね」

僕は多分にやにやしていたように思う。

やがてハイデイが得意顔で笑顔満面の先生を連れて来た

何だやっぱりアイツじゃないか・・・・・
向こうもやっぱりコイツか・・・と思ったに違いない

でも大晦日、カウントダウンの意味ある夜。
厳かにステージを進めることが出来ました・
(特別なリクエストもなく)

みんなのダンス素敵だった


[原風景にあるらーめん]-----2003/12/03(Wed) 11:09


ではいいですか、僕の原風景の中に在る”らーめん”のお話です・・・





僕が小学2年生の時、母が出産の為近所の病院に入院してしまい、約2週間ほどだっただろうか、祖母も2日おきに夕飯を作りに来てくれたのだが、病院が近かった事もあり
又父もいつもは午前様だったが、さすがにその時は自重してくれて確か8時位には帰ってくれていた様に思う。
それで夕方遊びから直接母に夕飯代をもらいに行っていた。
あの頃の夕焼けは鮮やかに綺麗で、なんと言うか・・三丁目の夕陽を彷彿させるような実にのどかなものだったように思う。
そ こを小学2年生が500札半ズボンのポケットに、門限の無い旅に出れるのだ、当初はいい気になって友達何人かと酒井駄菓子店で大判ぶるまいして調子こいて いたようだが、ある日出前でしか食べた事の無いラーメン屋さんに興味をしめし、そう子供ながらにあの香りに引かれたんだろうと思う・・・何度も、何度も店 の前をうろうろしていたもんだから、通りすがりの大人達は不思議がっていたのではないか、もう8時も近くになるといい気分で酔っ払っているおやじさんたち も店の中で子供から聞くと大きな声をだしていたように思う。
意を決して幼い僕は暖簾をくぐった?必死で戸を開けた。
ラーメンをすするお客たちは一瞬押し黙ったような不思議な顔で箸が一瞬止まってたのかの様に思い出される。

大人の世界なんだなと、思った。
どうしたらいいのかいいのか分からないでいると、店のおばさんが「僕、食べてくの?」と優しい声、で見上げると
わ!晴美ちゃんのおばさんだ!
同級生の店だったのだ。もう恥ずかしくなっちゃって、もじもじしていると、「晴美上にいるよ、あそんでく?」とさえ言われてしまった。
それまで、言語を失っていた僕はがんばってみた。

”らーめん一つ下さい”
それを言ったら気が少し楽になったようで、ひとりでカウンターに腰掛けた。すると二度目の緊張・・・
おやじさんは、子供の僕に「いらっしゃい」と言ったのだ。おまけに無表情の怖い顔が湯気の向こうに見え隠れしている・・・

やがてカウンター越しのらーめんをおばさんがそっと僕の前に置いてくれた。
なんと言うか、これがこんなに大冒険になることは・・・割り箸をとって割る事自体が何かの儀式のようだった。
”大人ってすげ~”

実は完食したかどうかは当時覚えてはいないけど、子供ながらにすごく美味しいものだということは、今も深くこの胸に残っている。

その後も高校まで店に通いつめた。
全くシンプルな醤油ラーメンがメインで、スープは煮干系の香りがほのかに香るあっさりスープ。具もごくシンプルでチャーシュー、ネギ、ほうれん草になると、という典型的な東京ラーメンだが、なぜか通いつめてしまう後引き型の一品だった。今でも恋しい。


2年程前、東京に仕事に行った折に行ってみたらあったのだ(涙)。 で、湧き上がる感動と共に店に入ると、そのおやじさんはいた。”老けたな・・。”の感慨とともに、もしかしたら話かけてくれるのではないかと、おやじさんの目の前に座ると・・・
「いらっしゃい、何しましょう・」
僕も「いつもの」とは言えず「すいません、しょうゆ下さい」だって・・・・

かえって、そのほうがよかったのだろう。味もおやじさんも何も変わっていなかった。
いつまでも、頑張って下さい。


美味しいらーめんです、
”東京都清瀬市元町2―4―12”0424―91―0051”AM11:〇〇~21:30”ラーメン350円、チャーシューメン550円、味噌ラーメン450円、現行



[忘れられないふざけた思い出]-----2001/12/13(Thu) 07:18
僕の友人のギタリストN君と歌うたいのSとのある夏の夜のお話です。
暑い東京の夜に、どんないきさつだったかは忘れてしまったが、ビールでも呑もうか?のような話になって、深夜N君の実家に向かった。
ビールを買ったはいいけど、思い切りの熱帯夜。
深夜ということもあり、彼のご両親も就寝中のこともあり、僕らは半分ふざけた態度で彼の実家の店先に「”即席ビア―ガーデンを設けた。
美味しかった!
やがて僕らは男同士ということもあり、会話でその場のムードを維持することより、またあの時まだ25歳位だったかな、

暴走が始まった。

もう朝が来て新聞屋さんが訪れる時間にSはすっぱだかになっているし、N君が一番冷静だった様に思うが、その勢いで近くの池に泳ぎに行こうということになった。
あはは、今思い出しても面白くて仕方が無いよ!

三人三様にコスチュームを奇て、そうN君はタキシードにトランクスパンツ、Sは一つストラップのレオタード
、僕はといえば、ゴメン、覚えていない・・・が
これから出勤するぞ~の皆さんの群れの中逆行した我ら、間違えなく、変態に見えたに違いない。

池は極緑色によどんでいたが、Sがやたらに興奮している。およそ50メートルほどの池を泳ぎわたる決意に満ちていた。
奴はおもむろにレオタードを脱ぎ捨て池に飛び込んだ!
僕とN君は彼に宿る不思議なオーラにやられたように、数秒後には池の中だった。まるで何かの力に引きずり混まれるかのように・・・

約10分後我々はヘドロの塊を掻き続け対岸にいた。

素っ裸だった・・・

何を意味してこんなことをしているんだろう?なんて会話も無くそれぞれ唇を真っ青にして池辺で佇んでいた。

もういいかげん、朝になっており散歩するご老人達等が僕らをいぶかしげに見ている。
3人とも素っ裸だ・・・

どう考えても非現実的なことを我々はやっている。
で、対岸に残してきた我々のふざけた衣装にはどのようにたどり着けるのであろうか・
Sが言った「人が来たら、ベンチに座り足を組んだら分からないんじゃないかな」

僕らは思考の

軌道をもはや失っていたようだ。
でもSの言う通り3人は人と遭遇すると、揃ってベンチに座り足を組んでた・・・
どう考えてもおかしいし今思うと捕まんなくて良かったとおもうが、その後Sは帰り道、レオタード姿で倒れるし、
何とかみんな変な格好でN君の家にたどり着き、浅い眠りについた・・・


3人が遅い昼、眼を覚ました時、昨夜の不思議な旅をひとつの歌にすることになって、何だかしらふで歌をレコーディングしました。
一体あの夜は何だったのでしょう

でも僕にとっては、ふざけたあの夜が忘れられず、その後もそれぞれ音楽活動をしており、
時々Sの歌を聴くと或いはN君のギターの音色を聴くと涙すら流れる時があります。
僕も歌い手である以上、きりのつかないパラドックスにはまったようなもので、この世界にもっと自分を見出したいなんて思ってますが・・・

今でもふざけていてすいません。


[恋人はサンタクロースでいいのだろうか?]-----2001/12/11(Tue) 04:13
今、札幌は見事なまでの雪景色です。
この時期になると、これでもか?ってぐらいクリスマスの話題がメディアを通じて、或いは巷の話題で賑わいますね。僕も12月15日からは昔から唄い続けている”ホワイトクリスマス”やらをそれとなく唄い始めるし、街にはネオンサインに素敵なイルミネーション☆
一年のうちでも特に雪国札幌などでは、ムードが自然に高まる。
いい・・・

ク リスマスイブに向けて、準備が進む。経済効果もばっちりだ。夏の暑い日にはあまり売れないダイアモンドの指輪もその日のために頑張った人びとが”どうだ” と言わんばかりに購入されるしね、ちょっとした小粋なレストランで極当たり前に食事しょうかななんて思っても、「お客様、ご予約頂いてますでしょうか?」 なんて言われて、「アラカルトじゃだめですか?」と聞くほうもおかしいのかも知れないけど、「かんべんしてくださいよ」なんて言われるのも、首をかしげる に値する状況だと思う。(実際、去年の12月24日に、そう言われました。札幌東急インのシャンデリアにて、単なる思い出話に過ぎないと言いたいところだ けど凄い感じわるかった・・・)


15年ほど前に東京で友人4人とイブの夜込み合う赤坂の街を徘徊していて、どこも込んでるから今 夜はホテルのバーで速やかに飲まないかと、我が身にふさわしくない”赤プリ(赤坂プリンスホテル)にげらげらと出向いたのです。ところがビックリ!カップ ル達の列がエントランスに至るまでの通路にこれでもかってな位並んでいた・・・

そのときも計算違いだった。

彼らの多くはおそらく年齢から察してもおそらくこの日のために予約?宿泊客ではなかったのか、
みんなカップルだ!でも其処に漂う空気は静寂に包まれ、ラーメンの行列のそれとは明らかに違う。
ルームキーを指で持て余している男も確認し、場違いな僕らも確認した。

”聖夜”

その日に、その日の為に段取りをしたんだね。

”聖夜”

この日の為に、愛を混ぜ合わせるのだね、


僕がアメリカに居た時のクリスマスは、マクドナルドすらやっていなくて、淋しかったな。
テネシーの田舎町だったけど、みんなそれぞれ自分の親に会いに、恋人と部屋で過ごす為に町に華やかなライトアップはされなかった。
日本で感じる元旦のようだったかもしれない。
とてもおごそかな夜・・・
初めてのあの土地で見た雪はイブの夜だった。
僕は何処の宗教にも参加はしていないが、イエス様のお生まれになる前夜・・・・崇高なイブです。


皆さん多いに愛し合ってください☆☆☆☆☆☆☆


P・S

今夜の札幌は夜通し雪だって・・・でも綺麗だ・・・


[最近のトウキョウ]-----2001/12/05(Wed) 06:07
この間どうしても時間的に仕事場に真に合わないと思い、え~いと池袋から六本木までとタクシーにお願いしました。なにしろいつも僕の旅にはゴロゴロ転がすそうだな~20キロほどのトランクとハードケースのギター・・・
ようやくトランクに荷物を押し込んで僕も後部座席に乗り込んで、ふ~といきを吐いたのです。

で、運転手さんは言った。
「どこ、通って行ったらいいんでしょうね?」
おいおい、何を言っているんだ・・・と思ったけど、僕も疲れていたもので、「北海道から来た者で地理は分からないのですよ・・・」と答えたところ、「お客さん、甘いね」と言ったまま黙り込んでしまった。
やがて西麻布通りに差し掛かった頃、運転手さんは脅迫的に僕に対して道を訊きに入った。
本当に困っていたらしい。僕にしても、最近トンネルなんかがあの辺できてるし余計なことは言わないほうが得策だと思ったのだが、まして、僕はカーナビじゃないし、言ったところに連れて行ってくれるのが運転手さんの仕事だ。

ようやく六本木通りに入り、実は僕はテレ朝通りに向かいたかったのだが、高架下の車線にタクシーははいってしまい、いずれにしても渋谷方面からだと右折は出来なかったわけだが・・・

怒号のクラクションの中見事に停車してくれた。急いでお金を渡すと端数はいらないって言ってた。すぐ出てくれっていう訳だね。トランクからトランクを引っ張り出し、重いギターケースを引きずりながら、命がけで六本木通りを僕は横断した。
   

そのときふと思い出したのはカルガモの引越しだ。


[オオアリクイ]-----2001/09/26(Wed) 14:51
偏食動物はなにもオオアリクイに限るわけではない。巨大なシロナガスクジラだって、あの巨体を維持する為の食料 といえば、わずか3センチほどのオキアミだけを量は尋常ではないが、食べ続けて大きくなった。コアラだってユーカリの葉だけを飽きもせず食べ続けるし、僕 だってラーメンだけを食べ続け、175センチ、62キロを維持している。

いきなり何を言っているのか自分でも分からなくなってしまった。
僕はオオアリクイが大好きだ。
あの長い鼻は緊急にダッシュする時など不便なのだろうが、立ったままの形で蟻を捕食する為に進化したものだ。
あの太い前足は蟻塚を粉砕する為のもので、長い爪もしかり。
オオアリクイの絶対数に対し、無尽蔵に存在する蟻は格好の食料源であり、いい選択であったと思う。

2年程前にオオアリクイの詳しい資料を求めて札幌にある丸山動物園に出掛けた。

やはり彼らはただのうのうと生きているわけではなく、アマゾンのジャングルには沢山の天敵がいるわけで、例えばジャガー、ブラックパンサー、アナコンダ、アリゲーター等・・・まず最初にパラパラページをめくっていたら、興味をそそる解説があった。
”オオアリクイはジャガー等に襲われると果敢にも戦う。
まず立ち上がって威嚇をし、その鋭い蟻塚粉砕用の長い爪で相手に抱きつきながら、背中を引っ掻く”というもの、
僕はう~んと少しの間状況を想像してみた。

だめじゃないか、その間に首を噛まれたら・・・

でも僕はそんなオオアリクイが好きなんだ。これからも世界一の偏食王として、奥深いアマゾンのジャングルの中で何代も君臨していて欲しい。

余談だが、シロアリ駆除の会社はオオアリクイ一匹飼っていればなりたつのではないだろうか・・・
おわり


[小学2年生]-----2001/09/14(Fri) 16:53
僕は画家になりたかった。継母はそろばん塾へ、バイオリン教室へ、ピアノ・・・色々なことを試みさせたかった様 だが、どれもこれも長くは続かず2週間足らずであったろうか自己放棄してしまった。ただ近所にあったアトリエにはその後5年程通っていたので両親は将来、 真吾は画家になると思っていたようだ。
ダリ、アンリ ルソー、スーラ、等の現実離れした画家が当時から好きで、よく夢想したものである。その描写 された光景に出会いたく、家のそばにあった背の低い茶畑に一人入り込み昼寝をしたり、朝早く柳瀬川に出掛け、川の辺で体育座りしていたり、とにかく周りの 眼からはあ「あの子は変わった子」って思われていたようだ。

自分でも分からなかったことが多い。(いや今、振り返ると)

先日輪都村にて健太郎君の絵と出合う機会があり、彼が僕の視界から消えた時、その”インディアンの肖像画”を仰視する時間を得られた。3分程僕はその絵に魅せられていた。
素晴らしいじゃないか。

少しの間だったけど、子供の頃に得た感性がむくっと起き上がった気がした。

そして、その頃の僕は、アトリエを卒業した後、動物園の飼育係なるべく、又夢追い少年になるのであった。 


[大野漁協]-----2001/07/26(Thu) 16:12
遂にというか、やっぱり・・・外来種であり大食漢でフィッシュイーターのバスが何者かの手によって、北海道の河 川、湖沼に放流され地道に生殖を繰り返してきた我が国固有の魚達の生態を脅かし始めた。函館の五稜郭のお堀には大口バスが・・・大沼国定公園の湖沼ではコ クチバスが大量に確認され、大沼漁協では在来種のワカサギが壊滅する恐れがあると危惧し大掛かりな駆除に乗り出した。コクチバスは大口バスの比べ寒さに強 いので、このペースで悪質な放流が続けば、北海道を席巻する日もそんなに遠いことではないように思える。

心無い放流者に提案する。
本州では、もう既にバスフィッシングは一般に認可され、ファンシーな大馬力モーターボートは、バスフィッシャーマンを乗せ湖を縦横無尽に走り回り、週末の釣り番組では、又かよ~と言わんばかりにバスフィッシング特集だ。
何も、ここに放さなくとも居るところにはバスは居る。
其処に遠征釣行すればいいじゃないか。
あなた方にとって天国さ。

あれだけテレビでカッコよく釣りしていたら、子供達もきっと憧れるね・・・大人達も刺激を受ける人もいるかも。
札幌のフィッシングショーでも、バスプロによるデモンストレーションは人気あったらしいし、いつも行く近所の釣具屋にもきちんとバスタックルが陳列されてる。笑っちゃうぐらい悲しいね。


[子供のような生き方]-----2001/06/04(Mon) 09:51
僕の場合、きっと少年時代に人格形成を大いに蓄えたタイプの人間と言えるのではないか?
勿論人それぞれに、父母に対する思い、或いはいじめられっこか、そうでなかったか、様々に色々あるだろうけど・・・
今、この年になってフト、何故こんな馬鹿げた真似をしているんだろうと自閉してしまう事がまま在る。

雪の札幌はススキノ、僕はおおいに飲んで行き付けの居酒屋に仲間とつるんで出掛けた時、”子供”をやってしまった。その居酒屋の店長はまだ若いのだけど、元”大鳴門部屋”にスカウトされたほどの巨漢で、僕は大きな彼が好きだった・・・(ホモではない)
その店は2階にあり、雪の中ごった返す店を離れて階下に出ることはまず無いのだけれど、その晩僕は確認してしまったのだ。彼の姿を・・・
少し腰を屈めて、何か作業をしてるかに思えた。

10メートル程手前から、黄色いスェットパンツにムカ・・・(; ・_・)―――――――――C<―_-)って
間違えなく店長だと思い、スケートリンクに化した、歩道から、七年殺しの構えで、巨漢に向かって勢いと共に滑り出した。


違う巨漢だったのだ。

僕の連れは、20代のバリバリ元気な連中だったけど、止めに入ったとたん、道路脇の雪の壁に人間型に貼り付けられ、僕としてはもうどうにもならなくなった。

そりゃそうだ、気持ちが悪くて雪の中腰をかがめていたところを、いきなり浣腸される・・・
巨漢でなくても怒ると思う。


後で巨漢の店長が僕を助けてくれた。
彼に対しても”この野郎を殺したい”と言い続けていたのが、かすかに脳裏に響く。



今の僕で謝る立場かどうか、分からないけど


”御免、人 間違いでした”


[ロバ]-----2001/03/09(Fri) 18:33
彼の名は、”ロバ”だった。気は優しく力持ちなんだけど、人から云われることに対して絶対ノーと言えない、ある意味主体性の無い・・・といえば、振り返りそうとも思えるが、・・・気のいい奴だった。

身 体は大きくまともに戦えば当時誰も彼を倒す事はできなかったに違いない。ただ気が優しいので、突然、廊下でコブラツイストを掛けられようが、や!と声を掛 け、肩越しに後ろから、人差し指を突きつけられても、卒業式で自分が壇上にさ~上がろう時に、膝カックンされようとも・・・絶対に怒ることは無かった。

僕の中学時代の同級生”ロバ”だ。



彼が血相を変えて僕の当時の教室に、殴りこみを掛けてきたのは、中三の春のことだった。
僕は何故ロバが、襲ってきたのか見当がつかず、僕の友人が彼の突進を阻もうとしたが、それも振り払い、僕は教室から逃げた。

午後になり、教室に戻ると当時いつも仲良くしていたキナシが云った。彼は逃げた僕の変わりにロバから事の事情を聞き出したらしい「今になってご免有り難う」

放課後、命を賭けて決闘をしたい!とロバが云ったそうだ。

よく僕自身理解を出来ぬまま、命を賭けて決闘をすることになり、そのためには、勝つ為の方法を考えることになった。ロバは気のいい奴なのに・・・
ノミの心臓に僕は攻撃をまず仕掛ける事にした。

キナシに頼み、下級生も含めて兎に角決闘の場に沢山のギャラリーを集めてくれと、そして時間をきちんと設定してその時間に間違いなく決闘をスタートすること。

そして約束の命を賭けた決闘の時間がやって来た。
7,80人が囲む中、図工室の裏庭に彼は現れ、僕は頭に”このチンポコ野郎”と書いたハチマキを巻き臨戦体制で構えていた。
彼の手足はガタガタ震え、沢山のギャラリーに注目される事で、緊張の局地にいたようだ。そして約束の時間がやって来た。
3分ほどで勝負はついた。

やはり、彼の優しい血は攻撃的には、なれなかった・・・

救急車が学校に登場しその戦いは終わったのだが、問題は何故、ロバが僕に刃を立てたのかである。

その夜、やっぱりか、というより当たり前なのだけど、ロバの母親が家に現れた・・・


そしてこう云った。

「この度は家の息子が真吾さんに大変な苦痛を与えたそうで申し訳ございません。息子から聞きましたら、真吾君に嫉妬している不良グループがそそのかしたようなんです。
これからも、仲良くして下さいね・・・」

僕は目頭が熱くなってしまい、泣いてしまった。

そして、見送りを兼ねて外にでると、

ロバがいた。

奴も泣いていた・・・



p・s   今、何処にいるんだ~?会いたいぜ~!
[チャーリー西尾という人物 #2]-----2001/02/20(Tue) 17:00
腰の低いロカビリー野郎



彼と出掛けた帯広では、ロカビリー、ロックンロールが熱いそうで、僕がマネージャーとして付いて行った。
50バクダンという素敵な店が会場となり、店内には染み付いているのであろう、ポマードの香り、男臭いムードが漂う・・・。
僕自身、あまりロカビリーライブには縁が無かったので、どんな、夜になるのだろうか?どんなお客さんが来るのだろうか?ツイストとか踊り狂うのだろうか?・・・・とても興味深く楽しみにしていた。

1人、2人、3人~と会場入りを始めた。
やはり、想像通りリーゼントと共に結構攻撃的なファッションに身を包んだ若者が集まりだした・・・。

チャーリーにガン飛ばしている者もいる(気のせいだったのだろうか・・・)大方客席が埋まり、さあ、いよいよ始まりだ。


みんなもこれから始まるロカビリーライブに熱く期待してたに違いない!

”ヘイ!ベイビ~熱く燃えようぜ!シェイク!シェイク!”

のような熱いノリを期待してたに違い無い!


「皆さんこんばんわ・・・。まずは、皆さんとの出会いに感謝の気持ちを込めて、この歌を唄わせて頂きたいと思います・・・聞いて下さい」


チャーリーやったり!  みんないきなり膝かっくんされたように、ラブバラードを一曲目から聴かされた。
そして、一部が終わると演歌歌手の様に、一人一人に頭を下げて会場を回り、二部のステージでは、平和をみんなで祈るような、空気の中で無事何事もなくアンコールにも答え、最後は10秒程直角に身体を曲げて丁寧に何度も挨拶していた。

さすが、浪花の人情派ロカビリー歌手ちぃや~り~西尾☆
謙虚で腰の低いろかびり~野郎!




[春はもうすぐ・・・]-----2001/02/20(Tue) 15:38
戦後、というより黒船来訪以来、この国”日本”には、本来いる筈の無かった生物が移り住み、幅を効かせている。
”人”の話ではありませんよ。その多くは自分たちの意志ではなく、人間のエゴのによって運命づけられてしまった人間以外の生物のことです。

魚では、もうすっかりお馴染みの”虹鱒、茶鱒、ブラックバス、白蓮、黒蓮、雷魚、草魚、ブルーギル、ティラピア
アメリカザリガニ・・・。山には、ミンク、アライグマ、台湾リス、・・・。

在来種は生命力の強い、外国勢力に押されどんどん減少への道と進み、特に鱒類に関しては天然の山魚女、岩魚などは完全に食われている。
北海道には、漁協による大きな管理システムが無いお陰で、まだまだ天然ものには出遭えるが、いずれ時間の問題でしょう。

本州の渓流は、もう全てといっていいほど、巨大な管理釣り場だ。春のシーズンが始まる前に漁協が魚の大放流を行う。例えば、”今年の奥多摩川は、稚魚放流15万匹、成魚放流5万匹、”等と釣りの雑誌に、大宣伝をする。
一つの川に、このぐらい、いやもっとかもしれない。
そして、釣り人は年券(入漁料のこと)8000円なりを払い、シーズン初日などは岸辺に隙間の無いほど釣り人が立ちこみ、人も魚も入れ食い状態となる。
9月のシーズン終了時にはほぼ釣り尽くされる。
川が、漁協にとっての商店だ。お金を払わないと遊ばせて頂けないのだから、漁協名義の持ち物だ。

箱根にある芦ノ湖は、最初に現在の天皇陛下がブラックバスを食用として放流された湖なのだけど、今、誰もこの魚を口にする事は無く、全国展開デビューを果たした、彼らは逆に日本にもともと生息していた在来種を逆に食いまくっている。
芦ノ湖では冬のワカサギ釣りも盛んで、冬には沢山のこれまた太公望が、集まるけどブラックバスは天然のワカサギを食いまくってしまい、漁協は、こりゃいかん!お客様が離れてしまうと云わんばかりに、ワカサギすら大量放流をする。”今シーズン、ワカサギ卵50億粒放流”

ふざけ過ぎだ・・・。又ブラックバスのルアーマンたちは、”キャッチ&リリースの精神”で釣れたバスを紳士的に放すから、ブラックバスは放流する必要が無い。
余談だが、彼らも外来語好きだ。”釣れた!”といって喜べばいいのに”フィッシュ!”とか”キャッチ オン!”
とか叫んでる。ま、それはそれでいいのだけど・・・。

バスに関しては、       釣れたら食べて欲しい、自主的防衛策を持たないわが国の魚類はどんどん減少の道へと歩き始めた。


もうすぐ渓流釣りのシーズンだなと・・・しみじみ想っていたら、ふとこんな事に想いを馳せてしまった。



P・S   あくまで、個人的な持論なので、異論を唱える方もいらっしゃる事は、承知しております。


[奇怪な嘘]-----2001/02/18(Sun) 11:37
僕は子供の頃よく嘘をついた。
例えば、”小学一年生”という名の毎月購読していた本があり、それには必ず何かしら付録が付いており、今思えば何ていうことでもないチープな代物なのだが、当時子供達にとっては宝物であり、かけがえの無い月一度の大きなイベントであり、プレゼントであった。

僕はそれを悪用した。

小学一年生の何月号までは憶えていないが、ある月に”忍者赤影”の何と形容したらいいのだろう・・・赤い縁の眼鏡・・・(当時子供心にも怪しく映った、しかも茶髪の兄ちゃんが)

そ れを手に入れた時、折りしも同時期にウルトラセブンが流行っていた。地球防衛軍の一隊員が、ある不思議な・・・何と形容したらいいのだろうか・・・眼鏡を かけると、巨大なウルトラセブンになり奇怪な怪獣を退治するという、今思えば、大変シュールな話なのだが、子供達の半分は真実に基づいた話であろうと、信 じていたのだ。

僕はそれを悪用した。

忍者赤影の付録眼鏡は、ウルトラセブン(星隊員)の眼鏡と非常に似ていて、僕のやったってことは、その眼鏡を使って当時いじめられッコだった子供に(僕も子供だったけど)わざわざ呼び出してそれをチラチラみせるのであった。
「何か、身の危険を感じたら僕を呼びなさい!君を必ず助けてあげる。その代わり怪獣カード(当時の流行りもので、その枚数を多く持つことによりステータスが上がる)
を一枚僕に渡して欲しい。何故なら呪い攻撃をしなくてはならないので・・・!   と、嘘をついた。

その結果、いざという時僕は逃げるし、怪獣カードは増えどステータスはどんどん下がり、おまけにその親までが、被害者の親として、家まで押しかける騒ぎとなった。

まずい!と思った僕は、発想の転換をはかってみた・・・。


”泣いて詫びた”


[叫んでも独り]-----2001/02/17(Sat) 09:11
まさに起きたばかり・・・
僕はよく、自分の寝言で眼を覚ますことがあり、それはおそらくそれまで見てい た夢と、連動しているのだと思うのだが、こんな事を今朝は叫んだ     ”俺のお袋は実は男だ!”      その時は、ただ上半身を持ち上げ、うつろ な目をして壁を見ていた・・・。咳をしても独り・・・ではなく、叫んでも独り・・・だ。一体どんな夢を見たというのだろう、僕の潜在意識の中のどこかに、 実は「お袋は男らしいな・・・」なんて意識が眠っているのだろうか?いや考えたことも無い。そもそも夢は筋なんてあるもんではないし、あまり気にすること も無いのだろうけど、自分のお袋が男らしいのだ・・・。一体どんな夢を見たというのだろう。


[チャーリー西尾という人物  #1]-----2001/02/16(Fri) 16:02
右手には重さ約20キロ程のキャリーバッグ、ハードケース入りのギターを携え、大阪は難波のさる交差点で、ある男との待ち合わせをしていた。

九州から北上を続けツアーもほぼ半ばに差し掛かった辺りで、普段から慢性の腰痛を抱えている僕にとっては、ここが正念場というところだった。
待 ち合わせの男は”真吾さん前回のツアーでは、散々な思いをさせちゃったので、今回大阪滞在中は家で過ごして下さいよ。難波まで来てくれたら、自慢のリン カーンで迎えに行きますさかい!あ、それともう一台移動に便利なようにもう一台用意しときまっせ~”  彼流のギャグだとは勿論思ったが、へ~車で来てく れるんだ。ありがたい。なんて、久しぶりの再会と共に思いを巡らせていた。

待つ事約5分・・・。  かすかに、”チリン、チりン”
と何処からかささやかな音がする。
その方向に目をやると、交通量の多い道路越しに彼はいた。    その男がチャーリー西尾だ。

オシャレな彼は自慢のリーゼントに、シックなスーツに身を包み、わざわざ僕を迎えるためにそんな格好をする事もないのに・・・。(それは僕の思い違いで、実は彼、普段着だったそうである)

彼のリンカーンは、ヤクルトのおばさん等がよく使用するシャコタンタイプの渋い三輪車だった。フリーマーケットで5000円で購入したとの事。
ふざけているのかな?とも思ったが、彼にとって普通日常のことらしい。荷台にギターを乗せて貰い、僕等は彼のアパートに向かった。5分ほどかけて着くとアパートの前には、もう一台の三輪車があり例のかごの後ろに”ちゃ~り~二号”の手書きのプレートが下がっている。
その時チャーリーの乗っていた三輪車のかごの後ろを確認すると、”ちゃ~り~一号”・・・・・”真吾さんには二号を使ってもらうさかいに・・・”と、当然のように彼は言った。

あ~楽しいぞ、浪花!

その夜は、僕が鯖シャツと呼んでいる一番派手な銀ラメの衣装、彼は自分のショーでは無いにも関わらず、将軍シャツと呼んでいる金ラメの衣装を着て梅田に颯爽と繰り出した。
その夜のライブではどちらがメインだか、分からないまま、ステージは進行し、お客さんすら撹乱され、僕等二人も調子こき、パワフルな浪花の夜は深けていった・・・。



P・S  何だか書いているうちに、頭の中を怒涛のごとく、浪花が駆け巡り、文体がまとまりそうも無いので、”チャーリー西尾という人物”については、又改めて皆様にご紹介致します。尚この文章については、実話であることと
本人の了承を得ていることも、追記致します。


[不本意な勘違い]-----2001/02/14(Wed) 16:15
全く知らない人から、困った勘違いをされると細かい説明或いはフォローが出来ない分、いつまでも心の中にモヤモヤした記憶が残る。      例えば・・・

昔、京都での仕事に向かうために車2台に分乗して、東名高速を真夜中走らせ、朝には現地の喫茶店で向こうのコーディネイターと落ち合う事になっていた。
やがて2台の車は、距離を広げ僕等は”ま、いいじゃないか。行き先は分かっているんだから”と安心して車を走らせたのだ。そして朝になりようやく京都に着いた頃には、2台の車に相当な差があったことに気づく。
コー ディネイターには、すでに先着した2名が先にホテルにチェックインした事を告げられ、ま、それはいいとして・・・更に告げられたのは”実は大野さん、予定 していたホテルが急きょ手違いから取れなくなりまして、で別のホテルに何とか圧力をかけてそちらで夕方まで休んで頂く事になりました”・・・”ま~それは それでしょうがない”と勿論思った訳で、ロングドライブに疲れていた僕らも早速その言われたホテルに向かった。

”やけに風流な名前のホテルだな”なんて思って探していたら、あった。

”なんだ!ラブ、ラブホテルじゃないか!”
でも仕方がない。話も通っているだろうし、N君と二人でフロントに向かった・・・早朝ということもあり、男女のカップルと2回すれ違った。(涙)

フロントではすぐわかってくれると思ったのに・・・。
フロントのおばちゃんは、僕等にこう言うのである・・・

”うちは、そういうところじやないんだよね~”

このおばちゃんには話が通ってなかったらしい。しばらく説明をしたが埒があかずにいると眠そうな眼をこすりながら、おじいさんが出てきた。
”バンドの人?あれさっき、大野さんたち来たけどね・・・”   そうか先行の二人は後から僕らが来る事を伝えなかったのだ。

ようやくすでに入室している彼らの部屋に通してもらうと、二人仲良くダブルベッドで寝ていた・・・。



夕方、ステージに向かうために、風呂に入ろうとしたら、
おいおい・・・総ガラス張りだ。1人1人順番に入った。
何だか、休憩というより、むしろより疲れた重い身体でステージに向かった我々だった・・・


P・S 去年、大阪の”ホテル近畿”という安ホテルでもほぼ同様な事があった。その時はC・NISIO君と一緒だった。
自分にとってかなり不本意な勘違いを2度経験したわけで、
しかも、ホモだ。


[新旧、時の流れ・・・]-----2001/02/10(Sat) 03:48
今でも隔月の割合で、東京に出掛けるのだけれども、羽田に降り立った瞬間から、僕は緊張している。それが夏であろうと、或いは冬であろうと、気持ちがいつも浮き立っている。
まず、行く先々によるが、モノレールで速やかに目的地に向かうのが、清々しい選択なのだろうか?  ちょっと待てよ・・・その目的地のすぐそばまでリムジンバスが出ているじゃないか・・・いやこの際、疲れた身体を癒す意味ですぐタクシーを拾ってしまおう・・・など・・・

空港に降り立った瞬間から、考え込んでしまう。
つまり目的地には歌う目的があり、その場所にはすぐにでも出掛けたいのだけれども、根っからの面倒くさがりやの僕は、アプローチを嫌っているのだ。(お叱りを覚悟)

29年間生まれていた時から住んでいた東京・・・。
もう離れて約10年。

身 体はもうすっかり札幌ナイズされており、その前はナッシュビルの片田舎暮らし・・・。元々僕にはこの生活が適していたように思う。札幌で今夜はハシゴする ぞ!と気合を入れて街にくりだしても、移動にタクシーの必要が無いほど、密度の濃いお店が犇めいており、それは、ナッシュビルでも同じことだった。毎日の ように、午後の日差しの中、釣りに繰り出し、夜は毎夜の如く歌っている。
気が向けば気のあった友達が、いつでも傍らに居たし・・・。

これからも旅の仕事は続けていくつもりだし、又ようやくの思いでたどり着いた先で会う、旧友や先輩との再会も僕にとってとても励みになる。

今ではタクシーを利用する時”お客さんどのコースで行かれます?”なんて訪ねられると、”地理感が無いもので、ひとつ最善のコースで御願いします”なんて云っている。
”じゃ山手通りから環七を行って・・・”と得意げに説明してくれる運転手さんに”あああ~なるほど・・・”なんて相槌を打つ自分に何の抵抗感も無くなった。

僕の知ってる東京は、今はもう無い。


羽田発千歳行きのボーイング747がファイナルアプローチのアナウンスを始める頃、その時がどんなに寒かろうと、僕は”帰って来た・・・”と一つため息をつく。
そして札幌までの、道のり・・・車窓から広がる風景を眺め、安堵感と共に高揚した気分を今味わっている。


[深川弁当と夜行列車]-----2001/02/06(Tue) 12:42
あれは5年程前の出来事だったのであろうか・・・。
札幌と東京の行き来はいつも飛行機だったので、僕は日常に変化をつけるべくあえて陸路を選んでみた。船旅もいいかななんて、悠長に考えてみたり、或いはレンタカーを使い札幌に着いたら返そうかななんて事、おお、待てよ自転車でもしたどり着けたら、話の種になるかも・・・。
色々考えました。でも時間的な事、金銭的な事、体力的な事等、様々な理由から、上野発の夜行列車を選ぶことにしました。当時人気のあった”北斗星”のチケットも以外に簡単に手に入れることが出来て、上野駅にギターとバックを伴い颯爽と向かったのです。
上野駅は、東京は山手線圏内にありながら、非常に個性的であり、個人的には、小学生の頃上野動物園の飼育係になりたかった僕は、一見うらぶれたように様に映るこの街に、何故か子供ながら駅構内を当てもなくうろつく人波をみて、不思議に悲哀の感を抱いた記憶があります。

さ て置き、列車の発車時間までの間、空港でのそれと違う時間の過ごし方を僕は楽しみました。駅構内にある中華料理店で餃子とビール等を喧騒の中で楽しみ、ほ んわかした頃ワンタンメンで仕上げです。時計の針にチラチラ見入りながら、”あ~そろそろか”なんて席を立ち、これからの長い道中に胸を躍らせ、”深川弁 当下さい”なんてニコニコしながら売店で買い物を済ませ、普段の電車で聞くベルとは違う、重厚な長く尾を引くベルにせかされ、見送りの大切な友人にしばし の別れを告げ、
さあ僕は夕刻発の札幌行きの夜行列車に乗り込んだのです。
車内は外界と隔絶されたような静かな空気に包まれてました。20 両ほどの長い車両の最後尾の更に最後尾の寝台に僕の席はありました。目の前では見たところ10代後半と思わしき若者が、見送りの仕事の同僚だろうか、何度 も何度も握手を重ねている。まるでこの世の最期の別れのような、ふざけた僕がすぐ横にいて申し訳ないような気がした。う~ん、そしてすぐ上段では既に寝支 度をしている中年男性・・・。
何か夜行には、飛行機で簡単に移動する事と違う意味があるのだろうか?  僕はしばし考えてしまった。

気を取り直し、僕はさっき買った”深川弁当”のお茶を買ってないことを思い出し、歩き出した。川口にさしかった頃だろうか。だけど最後尾の車両から歩き出したのでいつまで歩けば着くのよ、と云わんばかりに車両は続く・・・

途中、車窓を眺めながらゆったりとお酒を飲めるラウンジがあり(もっともその時は夜であり、でもそれは関係なかった)・・・僕の気を引いた。
3杯ほど呑んだら、既に僕のシートから1時間半程経っており、あららと言わんばかりに慌てて席を立ったのです。

又15両程の長旅だったでしょうか。ようやくの思いで自分のシートにたどり着くと、僕以外のベッドは皆カーテンを閉めていて、とても静かな空間だったもので、僕もそっとカーテンを閉めました。

あ!そうだ深川弁当食べなきゃと思い手にすると・・・やけに軽い?  開けてみると箸がご丁寧に折ってありました。あれあれ・・・


  ”誰かに食われた!”

皆、カーテン閉めてましたし、たかだか駅弁の食い逃げです。ま、これも自分の管理ミスだとあきらめかけた頃
バッグの上に置いといていた、親愛なる友からの、餞別入りの封筒も無い・・・・。

はいすいません。僕の管理ミスです。

朝8時半頃に札幌に着くこの夜行列車の旅は、僕とってとても長い旅となりました。
朝まで悶々として眠れず・・・。
今でもあの”がたんごとん・・・がたんごとん・・・”

脳裏に刻まれています。


[偶然と必然]-----2001/02/03(Sat) 06:18
たまたま僕は、3時丁度羽田発全日空67便を利用する事となる      1月31日の話です。


もしたまたま行き先が千歳ではなく、沖縄は那覇に向かう、しかも全日空ではなく、日本航空に乗ることとなっていたならば・・・同じ日の同刻である。
確率的な話ではなく、あの飛行機に乗っていたのでしょう。

そう書けばかなりのこじつけになるかもしれないが、”偶然と必然”てふとした所で以外に近い処にあったりするかもしれない。
その夜のニュースを知って僕はそう思った。
きっと翌朝那覇に再度向かう人も、或るいはたまたま何かの都合でその便をキャンセルした人も、多かれ少なかれ、同じ様な感慨を抱いていたのではないかと・・・

さて

かの機に乗り合わせた人は、どれ位怖い思いをした事だろう。
僕も一年に相当数、空の旅をするけど、いつだって気を病んでる。


実は、その前の日に人の生き死にに立ち会ったことで、僕はその日 飛行機に乗るのが怖かった。
とてつもないスピードで離陸すると、あっ!という間に空にいて、自分が空の上にいることが分かる・・・・。
”浮いている”て感覚だろうか。

でもね、そんな時って分かっていても冷や汗かいてる。
特にこの度は何故だか千歳空港に降り立つまでに、眠るに眠れず、その 僕の周りを覆う不安感はずっと、まとわりついていた。


      ”偶然と必然”


 きっといつも隣り合わせなのでしょう。        そして、何事においても・・・・・・。


[有珠山の熊たち]-----2001/01/09(Tue) 01:26
3年前だっただろうか・・・秋の高い空の下、初めて昭和新山と有珠山をこの眼で見てみたいと僕は、出掛けました。 全くの興味本位の観光です
中 学の頃より山が好きで、沢山の山を登りましたが今まさに噴煙を上げ続ける火山なんて間じかで見たことは無く、ビックリしたのは車を止めて外に出たら、見上 げる赤茶けた岩山から幾筋もの噴煙が上がってます。沢山の観光客が当たり前のように、見上げていたのでやっぱり僕もそうすることにしました。


しばらく眺めた後、僕はロープウェイで有珠山の頂近くまで登り、やはり昭和新山と同じ様に小規模ながらも噴煙を上げるその山の懐にいたら、少し今更ながら不安でした。”今、爆発したら僕はここで終わりだな・・・”なんて。
覚えています。僕が小学校6年生の時です、此処で噴火が起きた事  そして元気を取り戻したのですね。


山から下りて駐車場にある車を目指して歩いていたら、
”熊牧場”の看板が目に入りました。”へ~此処でね、大きなヒグマと会えるんだ”と思ったら行きたくなった。

入り口で、「おやつは?」と訪ねられ、なんのことだろうと首を傾げると、ヒグマに投げ入れる餌のことらしい・・・「じゃ、下さい」なんて買ってしまった。普通 動物園では餌をやらないようにって言われるのに・・・

みんな熊たちは、ピンポン球位の食べ物が欲しくて精一杯
僕にアピールしていた。2メートルは越すであろう身体を直立させ、更に片手を思い切り挙げる・・・。20メートル四方ほどのスペースの20頭ほどの熊たちが・・・・・

あれは芸として教え込んだものではないだろう。
熊たちは悲しいほど無垢な目をしていた・・・。



去年の春、ツアーの途中で有珠山噴火のニュースを聞いた時、僕は確か広島に居たと思う。
とても熊たちが心配だった・・・どうしているのかって、本当に気になった。何日か後、友人より熊たちの無事を知り、どんなに和んだか。



そして、再度彼らに会うべく昨日会って参りました。
折からの寒冷低気圧の関係で大変寒い日でしたが、熊たちは冬ごもりもせず、元気でしたよ。

ヒグマにしてはやけに黒い一頭を抜かしては・・・・・

寒風の中腹ばいのまま、可哀想に五体倒置しておりました。